デヴィ夫人の母親・根本政子の壮絶人生と母娘の悲劇の真相
国際的セレブリティとして今なお圧倒的な存在感を放つデヴィ夫人。華麗な社交界の頂点に君臨し、波乱万丈の人生を歩んできた彼女の原点には、戦前・戦後の混乱期を泥まみれになって生き抜いた実母・根本政子(ねもと まさこ)さんの存在がありました。
娘を異国の国家元首のもとへ送り出し、過酷な運命の中で非業の最期を遂げた母・政子さんとは、どのような人物だったのでしょうか。極貧を極めた東京・麻布での暮らしから、大統領夫人誕生の裏に隠された母娘の愛憎、そして今も語り継がれる家族の悲劇まで、一次資料や本人の手記をもとにその実像を紐解きます。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:母・根本政子さんは足の不自由を押して内職に励み、極貧の中で娘・七保子(デヴィ夫人)の教養と美意識を育んだ。
- 要点2:1962年、愛息(弟・八曾男さん)の自死という衝撃の直後、後を追うように心臓麻痺で急逝した悲劇の真相。
- 要点3:過酷な貧困と家族の死を乗り越えた「母娘の絆とトラウマ」が、デヴィ夫人の不屈のバイタリティの源泉となっている。
【家族構成と生い立ち】母・根本政子さんと麻布の極貧時代
デヴィ夫人(本名:根本七保子)は1940年(昭和15年)、東京府東京市麻布区霞町(現在の港区西麻布)に生まれました。根本家の家族構成は、父・兵七郎さん、母・政子さん、七保子さん、そして後に生まれた弟・八曾男(やつお)さんの4人家族でした。
父の根本兵七郎さんは腕の良い大工棟梁でしたが、若くして目を患って視力を失い、定職に就くことが困難になります。そのため、家計の重責は母である政子さんの双肩にのしかかりました。政子さん自身も足にハンディキャップを抱えていましたが、傘張りの内職や下宿人の世話などを昼夜問わずこなし、わずかな日銭を稼いで家族の食いつなぎを支えていました。
当時の麻布は現在のような超一等地の高級住宅街ではなく、戦災の爪痕が色濃く残る下町風情の残る地域でした。七保子さんは幼少期から、すきま風が吹き込む木造長屋で空腹に耐える日々を過ごしており、この「極貧の記憶」こそが、後に彼女を突き動かす強烈な上昇志向の原体験泉泉となったと自著でも述懐しています。

母娘を襲った過酷な運命と「東洋の真珠」誕生の背景
貧困に喘ぎながらも、母・政子さんは娘の教育と身だしなみには一切の妥協を許しませんでした。わずかな生活費を削って七保子さんに日本舞踊やピアノを習わせ、立ち居振る舞いや言葉遣いを厳しく躾けたと伝えられています。
1956年に父・兵七郎さんが病没すると、家計はさらに逼迫。七保子さんは都立三田高校定時制に通いながら、千代田生命保険での事務員勤務、さらには赤坂の高級クラブ「コパカバーナ」で働き始めます。美貌と卓越した知性を武器に頭角を現した彼女は、1959年、来日中だったインドネシアのスカルノ大統領と運命的な対面を果たすことになります。
| 項目 | 詳細・家族の歩み | 当時の社会状況・世相 | 編集部の見解・評価 |
|---|---|---|---|
| 父親(根本兵七郎) | 大工棟梁。視力障害と病気により1956年に他界。 | 戦後混乱期における職人の困窮。 | 一家の大黒柱を失ったことで、母娘の結束と自立が加速した。 |
| 母親(根本政子) | 足の障害を抱えつつ内職で家族を養い、1962年に病没。 | 公的扶助が不十分だった昭和30年代。 | 極限状態でも娘の教養に投資し続けた誇り高き母親像。 |
| 長女(七保子/デヴィ夫人) | 19歳で単身ジャカルタへ渡り、第3夫人に。 | アジア外交と日印関係の黎明期。 | 家族を貧困から救い出すという強い決意が渡航の原動力。 |
| 長男(根本八曾男) | 早稲田大学進学後、1962年に23歳の若さで自死。 | 過熱するメディア報道と周囲の好奇の目。 | 急激な環境変化と人間関係の重圧が招いた痛切な悲劇。 |
1959年秋、19歳の七保子さんは周囲の猛反対や将来への不安を抱えながらも、単身インドネシアへ渡航します。愛娘を遠い異国の地へ送り出す際、母・政子さんは涙を呑みながらも「立派にお役目を果たしなさい」と背中を押したといいます。
【実態検証】母娘の確執と愛憎|手記に見る母・政子さんの素顔
現在残されている当時の母娘の写真を見ると、政子さんは小柄でありながらも芯の強さを感じさせる、凛とした眼差しをしています。デヴィ夫人の端正な顔立ちと鋭い気品は、間違いなく母・政子さんから受け継がれたものです。
しかし、二人の関係は単なる「仲睦まじい親子」という美談だけでは片付けられません。自著の告白によると、生活苦から生じる苛立ちや、互いの強烈なプライドが衝突することも少なくありませんでした。政子さんは非常に厳格で、娘が華やかな世界へ足を踏み入れることへの不安と期待の狭間で常に葛藤していました。
デヴィ夫人はインドネシアへ渡った後も、母と弟のために多額の仕送りを続け、東京に近代的な住宅を購入してプレゼントしました。母・政子さんにとって、娘の成功は貧窮からの解放を意味すると同時に、遠く離れて暮らす寂しさと世間の好奇の目に晒される日々の始まりでもありました。

一般に知られていない盲点と誤解|弟・八曾男さんの自死と母の最期
インターネット上の一部では「デヴィ夫人は母を日本に置き去りにしたのではないか」という心ない臆測が散見されますが、これは事実と全く異なります。家族を襲った最大の悲劇は、1962年に起きた「弟・八曾男さんの自死」と「母・政子さんの急逝」でした。
姉の支援を受けて早稲田大学へ進学した八曾男さんは、真面目で心優しい青年でした。しかし、姉がスカルノ大統領の夫人となったことで、周囲から「大統領の義弟」として利用しようとする人間が急増。投資話のトラブルや詐欺被害に巻き込まれ、さらにはマスコミの過熱取材や心ない中傷に追い詰められた八曾男さんは、自宅アパートでガス自殺を図り、23歳という若さで自ら命を絶ちました。
この報せを受けた母・政子さんのショックは計り知れないものでした。最愛の息子を失った政子さんは、八曾男さんの死のわずか2日後、帝京大学病院で心臓麻痺(衰弱死)により息を引き取りました。60歳にも満たない早すぎる死でした。
ジャカルタの宮殿で母と弟の連続訃報を同時に受け取ったデヴィ夫人は、深い絶望の淵に突き落とされ、一時は自暴自棄になるほどの精神的打撃を受けたと語っています。家族を幸せにするために異国へ渡ったはずが、その決断が巡り巡って最愛の肉親を死へと追いやったのではないかという自責の念は、彼女の心に消えない傷痕を残しました。
【プロの結論】昭和の家族力学と心理的バウンダリーから読み解く教訓
根本家の歩んだ軌跡を家族社会学や心理学の視点から分析すると、戦後日本の急激な復興期における「母娘の共依存」と「心理的バウンダリー(境界線)の曖昧さ」という構造的課題が浮かび上がります。
極限の貧困状態にある家庭では、親の自己犠牲と子の恩義が分かちがたく結びつき、子どもが「家族全体の救済者」としての役割を過剰に背負い込む傾向があります。七保子さんが選んだ「異国の国家元首への嫁入り」は、個人の幸福追求を超えた、家族救済のための究極の選択でした。
しかし、急激に手に入れた名声と富は、家族間の心理的境界を揺るがし、繊細だった弟・八曾男さんに耐え難い社会的外圧をもたらしました。この痛切な歴史は、家族が互いを思いやるあまりに生じる重圧の恐ろしさと、どんな境遇にあっても個々人の心理的自立を保つことの重要性を私たちに教えています。
【デヴィ夫人 母親】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:デヴィ夫人の母親の名前と死因は何ですか?
A1:お名前は「根本政子(ねもと まさこ)」さんです。1962年、長男(デヴィ夫人の弟・八曾男さん)が自死したショックにより、そのわずか2日後に心臓麻痺で急逝されました。
Q2:実家が極貧だったというのは本当ですか?
A2:事実です。大工棟梁だった父・兵七郎さんが目を患って働けなくなり、母・政子さんが内職をして一家を支えていました。戦後の麻布で雨漏りのする長屋に住み、日々の食事にも困るほどの過酷な生活環境でした。
Q3:弟の八曾男さんが亡くなった理由は何ですか?
A3:早稲田大学在学中、姉がスカルノ大統領夫人となったことで周囲から金銭目当ての詐欺や過熱報道に晒され、精神的に追い詰められた末のガス自殺でした。
Q4:デヴィ夫人と母親の写真はどこで見られますか?
A4:デヴィ夫人の自叙伝や回顧録(『デヴィ・スカルノ自伝』など)の口絵写真、特番の特集映像などで、若き日の七保子さんと母・政子さんが並んだ貴重な肖像写真が公開されています。

まとめ:波乱の歴史が物語る「デヴィ夫人」という不屈の生き様
デヴィ夫人の優雅で華やかな佇まいの奥底には、母・政子さんと共に味わった極貧の苦しみと、最愛の家族を同時に失った壮絶な悲哀が刻み込まれています。
「どんな逆境にも決して屈しない」という彼女の強靭なメンタリティは、泥水をすするような生活の中でも娘の教養を信じて育て上げた母・政子さんの生き様そのものです。昭和という激動の時代に咲いた母娘の軌跡は、半世紀以上が経過した現在もなお、強い感動と教訓を与え続けています。 (出典: デヴィ夫人 母親(Yahoo!ニュース))